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「千鳥城」の別名を持つ島根県・松江城。そこからほど近い宍道湖畔に創業100年を超える老舗旅館『なにわ一水』があります。2006年から“誰もが旅行しやすいユニバーサルツーリズム”の実現を目指し、バリアフリー・ユニバーサルデザインの取り組みを積極的に進めている旅館です。その取り組みの一環として、飲み込みが難しい方のための食事・嚥下食の導入を決意。近隣病院の医師と嚥下サポート食品メーカーの協力のもと、知識がないところから嚥下食の提供に至った経緯について、なにわ一水代表の勝谷有史氏に伺いました。
松江しんじ湖温泉
なにわ
https://www.naniwa-i.com/
代表取締役社長

私たちは、2006年から誰もが気兼ねなく旅行できるユニバーサルツーリズム実現のために、ハード面・ソフト面・ハート面において、すべてのお客様に喜んでいただけるバリアフリー・ユニバーサルデザインの旅館を目指しています。食のバリアフリーにも力を入れており、食物アレルギーはもちろん、宗教上の配慮、ベジタリアン・ヴィーガンなど、多様な食のニーズに対応しています。その延長として、嚥下食に取り組みたいと考えました。
きっかけは会食中の雑談でした。摂食嚥下の専門家である松江生協病院の仙田直之先生からニュートリーさんをご紹介いただき、三者で会話をする中で、「旅館で嚥下食を提供することができたら面白いのではないか」という発想が生まれました。「飲み込みが難しい方とそのご家族が一緒に旅行を楽しめる場所を増やしたい」という仙田先生の想い、「嚥下食がどこでも食べられる社会になってほしい」というニュートリーさんの想い、そして「障害のある方もない方も気兼ねなく旅行をしてほしい」という我々の想い。そんな三者の共通の想いが通じ合って、嚥下食プロジェクトが動き出したのです。
お客様の要望で食事をきざんだり、ミキサーにかけたりすることはありましたが、嚥下食はこれまで取り組んだことのない分野でした。嚥下食について耳にしたことはあっても、ペースト状の食事という程度の知識しかなかったため、まずは「嚥下食とは何か」から学ぶ必要がありました。それは、調理スタッフはもちろん、予約を受けるフロントスタッフや接客スタッフにも共通する課題でした。
その課題を解決するため、ニュートリーさんが嚥下に関する勉強会を複数回にわたって開催してくれました。また、さらに知識を深めるため、仙田先生にも嚥下障害に関する講演をお願いしました。
嚥下食とはどんなものなのか。嚥下食のコードとは何か。コードによって食形態が違い、求められる物性も異なること。食材そのものに対しても、食べにくい食材や部位があること。そうしたことを勉強会で知ることができました。
調理についても同様です。ニュートリーさんの嚥下専門スタッフや実際に嚥下食を提供している施設の調理師さんに、とろみ材やゲル化材の使い方や嚥下食の調理のポイント、成形方法をレクチャーしていただきました。
調理スタッフは日頃から、寒天やゼラチン、片栗粉を使っているため、嚥下食の調理に使うゲル化材「ソフティアG」やとろみ材「ソフティアS」を、すぐに使いこなせるようになりました。使うものが変わっただけで作業自体を大きく変える必要はありませんでした。レシピの分量どおりに作ればしっかり固めることができ、仕上がりの物性が安定しているため、とても使いやすく感じたそうです。
食材をミキサーにかける際に水を加えるため、味が薄くなり、全体がぼんやりしてしまう点には試行錯誤を重ねました。通常の料理より濃く調味してからミキサーにかけたり、風味が薄まるため香りの強い食材を加えたりと、目指す味を探っていきました。
特に難しかったのは、嚥下食を通常の料理と同じような形に成形することでした。旅館の料理は、日常の料理ではなく、非日常の料理でなければならない。これが旅館の使命だと考えています。特別感があって、季節感があって、地元の料理を堪能できる。それは、嚥下食でも同様です。通常食と同じ形・同じ色・同じ模様を再現するために、焼き目をつけたり、絞り袋を使ったり、普段は使用しない色粉も時にはポイントとして効果的に使うなど、試作を重ね、クオリティの向上を追求しました。
さらに、嚥下食は飲み込みが難しい方のための食事であることから、仙田先生や病院の管理栄養士さんに試作品を試食していただき、専門的な視点から評価を受けました。
完成した嚥下食を実際に体験していただくため、飲み込みが難しい方を対象に、ニュートリーさんとお披露目イベントを開催しました。飲み込みが難しいお子さまや高齢の方と、そのご家族にご参加いただきました。
当日は、しまね和牛、のどぐろ、しじみなど山陰の名物を贅沢に使った会席料理をご用意。飲み込みが難しい方には嚥下食、ご家族には通常食で提供しました。もちろん嚥下食は見た目や味をそのままに飲み込みに配慮しました。
お客様からの率直な意見をいただくため、各テーブルをまわってお話を伺ったところ、嬉しいお声をたくさんいただきました。
「食事形態を合わせていただいていたおかげで、どれもそのまますっと食べられました。1品ごとに素材本来の味が感じられるように工夫されていて、本人も黙々とすごく美味しそうに食べていました。生のお刺身をペーストにするという発想は、家庭では思いつきませんし、実際に作るのも難しいため、本当に感動しました。なめらかさや彩りまで家庭ではなかなか対応できませんので、やはりなにわ一水さんだからこそ味わえるものだと思います。」(A様)
「ミキサーにかけやすい食材とかけにくい食材があるため、どうしても出汁や水で薄めがちになりますが、味がしっかり調整されていました。さらに、見るだけで食欲が湧いてくる仕上がりで、細部まで工夫されたことが伝わってきました。」(Y様)
「家族で同じ料理を食べることができたので『あれがおいしかった』、『私はあれが好きだけどどうだった?』と感想を共有できたことがすごく嬉しかったです。」(A様)
また、飲み込みが難しいご家族との外食の難しさとともに、旅館で嚥下食を提供することについての期待の声もいただきました。
「外食する時はミキサーを持参しますが、本人に食べさせるまでに20分~30分かかって、ようやく1品だけ食べるような感じです。2品、3品になると、その都度ミキサーを洗わなければいけないので、あとは、スープにとろみをつけて食べさせるくらいしかできないことが多いです。 これだけの種類の料理を食べて、どれをどれくらい食べさせようかと悩むというシチュエーションは本当にないので、今後増えてくれるとありがたいです。」(A様)
「ブレンダーを持参して料理を選べば外食も不可能ではないのですが、お刺身やお漬物は、さすがにブレンダーにかけようとは思わないので、本当に貴重な機会でした。外食時は、子供のためにブレンダーしやすい料理を頼むので、親は希望通りのものが食べられないことが多いです。2人が食べたいものを食べられるというのは、とてもいいなと思いました。」(H様)
「ブレンダーや介護食は結構重いので、荷物が減らせると気軽に外出できますし、旅行へのハードルも下がると思います。また、ブレンダーを使う時の音が気になるので、ちょっと上品なお店ではブレンダーを回しにくい。嚥下食を広めてくれようとしてる方がいらっしゃるっていうことを知れただけでも、本当に嬉しい体験でした。」(H様)
「おもてなしの極みだと思います。これだけ熱い方々がたくさんいてくださって、ありがとうという気持ちしかありません」(A様)
「こんな素晴らしいお料理が食べられるなら、1年頑張ってまた来たいなと思います」(A様)
イベントの締めくくりに、仙田先生から「今回のように飲み込みの難しい方がご家族と同じメニューをおいしく食べられることで『自分だけ違う』という疎外感がなくなり、家族との共感が生まれます。それはとても幸せな瞬間であり、何よりも大切なことだと思います。」とのコメントをいただくことができました。
嚥下食への挑戦は、仙田先生がニュートリーさんと私たちをつないでくださったからこそ実現できた、医療機関・食品メーカー・旅館の三者連携プロジェクトです。この1年3か月にわたるプロジェクトで、私も旅館スタッフも嚥下食に関する知識習得だけでなく、旅館としての守備範囲をさらに広げることができたという大きな充実感と貴重な経験を得ることができました。そして、本当に嚥下食を必要とする人が非常に多くいらっしゃることを実感できました。今後も私たち『なにわ一水』は、すべてのお客様に安心してお越しいただき、楽しんでいただきたい。その目標を実現するために、今後も挑戦し続けていこうと思います。
この取り組みに対して仙田先生からは、「松江や島根だけでなく、全国の旅館のモデルケースとして広まってほしいですね。飲み込みが難しい方たちが旅行できる場所、家族と一緒に行けるところがどんどん増えると嬉しいなと思います」と、期待のこもった温かいコメントをいただきました。
旅行というのは1か所に行けばいい、特定のところへ泊まればいいというものではありません。いろいろな景色を見る、料理を味わう、人と触れ合う、その場の空気を感じる……その選択肢がもっと広がってほしいです。そのためには、日本中の旅館や飲食店の皆さんが嚥下食の提供に取り組んでほしいと、切に願います。嚥下食のある旅館が当たり前になり、お客様がどこの土地、どこの宿を選んでも安心できる。そうなった時にはじめて、食のバリアフリー、本当のユニバーサルツーリズムと言えるのでしょう。